前回の続きです。やっとA社に対して正式に提案することを許された私は、キーマンであるNさんとの距離を少しづつ縮めていきました。
ふたり定例会
プレゼンやデモでNさんと議論を交わす内に、彼が思慮深く、誠実で公平な人物であることが分かって来たものの、なかなか「もう一歩」を踏み込むことが出来ませんでした。そこで私は、こんな提案をしてみたのです。
「毎週1回、1対1で1時間、ふたり定例会をやらせて貰えませんか?」
ダメ元で言ったのですが、意外なことに、Nさんはその提案を快諾してくれました。ほどなくして、「ふたり定例会」は始まったのですが、2ヶ月も経つと話題は尽き、決して口数が多い方ではないNさんと毎週ふたりで会って話すことが、かなり辛くなって来ました。1週間に1回なんて言わず、1か月に1回にしておけば良かったなどと、後悔したりもしました。しかし自分が言い出した事です。ギブアップする事は出来ません。
無理して話題を見つけて、沈黙が怖くてひとりで喋る事を続けるうちに、そもそも私がしたかったのは、話を聞いてもらう事ではなかったはずだと思い返すに至ったのです。私は定例会の前に会話の準備をすることを止めて、Nさんの話を聞くことに専念することにしました。沈黙を恐れずに、相槌や合いの手を入れながら、ただひたすらにNさんの話を聞くことに集中したのです。
勿論、試行錯誤はありましたが、ふたり定例会を重ねるに連れて、Nさんとのコミュニケーションは極めて安全で友好的なものとなり、週1回のその時間を楽しみに待つようになりました。
私が何とか「聞く力」のようなものを身につけることが出来たのは、この時の経験によるものが大きいと思います。Nさんと私のふたり定例会は、余程の事がない限りキャンセルされることはなく、3年以上続きました。
Nさんの言葉
その後、私たちの提案はA社に採用され、ライバル会社の厚い壁に「蟻の一穴」をあけることに成功したのですが、そのコンペの終盤、各社の提案がNさんの手を離れて、最終決定が上層部に委ねられた直後に実施された打ち合わせで、Nさんが口にした言葉を私は忘れることが出来ません。それは、私たちの尽力に対するねぎらいではなく、彼自身のビジネスマンとしてのプライドと覚悟をかけた宣言のように聞こえました。
「御社の提案は当社にとって非常に価値あるものでした。もしこの提案を当社が採用しなかったとしたら、そこにどんな事情があったとしも、私はこの会社を辞めることにします」
それまでの両社間を取り巻く複雑な事情や関係性を知り、その中で我が社を選ぶことの難しさを肌で感じていたNさんだからこそ出てきた言葉だと思います。
夜寝ることも惜しんで知恵を絞り、あらゆる手を使って他社の動向を探り、社内を駆けずり回り、社長であろうが常務であろうが使えるものはとことん使い、部署を越えて仲間を搔き集め、ただひたすらにこの案件を獲得することだけを目指した私たちの思いが、この一言によって報われたのです。
築地場外は大混雑
今、Nさんは転職して新しい場所で活躍していると聞いています。きっと、以前と変わらず真っすぐな情熱で邁進しているんだろうと思います。どんなプロジェクトでどんな苦楽を経験しているのか、とても気になるところです。今度機会を見つけて、久しぶりの「ふたり定例会」に誘ってみようと思います。
築地場外市場は海外客で埋め尽くされ、どの店もすさまじい待ち行列で、商店街は歩くこともままならない状態になっていました。私はここで一杯やるのをあきらめ、晴海方面に少し歩いて、観光客が比較的少なくなったところで昼食とビールにありつける店を探すことにしました。その日、私の嗅覚はかなり冴えていて、路地裏に美味くて粋な寿司屋を見つけました。その店については、またの機会に話したいと思います。