台湾ラプソディ

交流紀

台湾への思い

同じ年のTさんが独立すると聞いて、3月の雨の日、私は錦糸町のお好み焼き屋「源亀」にTさんを招いて、愛弟子Hとともにささやかな壮行会を催しました。お好み焼きをつつきながら、Tさんは抑揚のない、淡々とした彼独特の語り口で、彼のセカンドライフの核となる「台湾」への熱い思いを語ってくれました。

Tさんが、ビジネスを介して出会った「台湾」に強く惹かれていったことや、ここ数年は業務と並行して台湾にかかわる活動をしていることは以前より聞いていましたが、あらためてTさんの少年のように純粋で、頑固でいながら、しなやかな生き方に感じ入ったのです。

初めての台湾訪問

2年程前の飲み会の席で聞いた、台湾に対するTさんの思いにひどく感動して、私は昨年の10月に初めてその国を訪れました。たった2泊の短い滞在ではありましたが、俄かで仕込んだ台湾の歴史に思いを馳せつつ、熱気に満ちた街や観光地を歩き回りました。

聳え立つ超近代的な台北101の麓には、日本統治の色が濃く残る古い町並みや、活気あふれる夜市が点在していて、台湾の歴史と文化を間近に感じることが出来ました。

台湾の人は親日家が多いと聞いていましたが、タクシードライバーも食堂の店員も、出会う人それぞれが表現は異なるものの、とてもやさしく接してくれたのも印象的でした。

台湾と日本

日本は日清戦争での勝利から太平洋戦争の敗戦までの50年間におよび台湾を統治下に置きました。その時代に日本は生活インフラを整備し、教育システムを構築するなど、台湾の近代化に大きく貢献しましたが、その一方で台湾の人々に対する弾圧や虐殺も存在していたのです。

そのような過去を併せ持って、なお、彼らが日本人に対する親密な、敬意に似た感情を持ってくれている理由を知りたいと思いました。そのため私は、台湾の複雑な歴史と変遷していった文化についてもっと深く知る必要があると感じたのです。

終戦後、日本に代わってやって来た蒋介石軍を、当初台湾の人々は歓迎したと聞きます。しかし、私利私欲にまみれ、汚職と虐殺を繰り返す、祖国からやって来た新しい支配者の統治の中で、台湾の人々は、かつて日本の一部であった時代をどのような思いで振り返ったのでしょうか。

私にとって近くて遠い国だった台湾がこの旅で、親戚のような、古くからの友人のような存在になったのは、私が心のどこか奥の方に持っている、日本人としての誇りのようなものを揺り動かされたからなのかも知れません。

美麗島

台湾へ恩返しをしたいのだ、と錦糸町のお好み焼き屋でサワーを煽りながら、Tさんは繰り返しました。おそらくそれは、彼の個人的な恩返しということだけではなく、台湾の短くて長い、国家としての数奇な歴史のある時期、この国に深く関わった日本と、日本人としての思いが込められているのかも知れません。

今、時代は急ハンドルを切ってあらぬ方向に進んでいるように感じます。トランプの暴走やプーチンの野望が世界を混乱させる中で、大国中国は、もうひとつの中国、あの美しく、優しさに溢れた「美麗島」を虎視眈々と狙っています。中国が台湾への侵攻を現実にしたとき、我が国は、優しき隣人を守る事が出来るのでしょうか。

その時、私たち日本人は何を感じ、どのように行動すべきでしょうか。アメリカとの安全保障関係が、かつてなく不安定になる中で、私たちは私たちの大切な隣国を、そして私たち自身を守る術を真剣に考えなくてはならない時に来ています。私たちの奥深くにある日本人としての誇り高い魂に、今こそ問いかけるべきだ、と私は思うのです。

台湾を取り巻く情勢が危うく不安定になっているこの時期に敢えて、長年勤めた企業の役員の職を辞してまで、愛すべき隣国の為、全精力を捧げるべく独立した、Tさんの矜持に私は深い敬意と憧れに似た思いを感じます。

雨上がりの空

お好み焼き屋を出ると雨は上がり、夜空には薄い星が見え隠れしていました。10月の訪台の折に、家族の祈りを込めて、天燈をあげた十分(シーフェン)の雨あがりの空が脳裏に蘇りました。

Tさんは用意したタクシーを頑なに断り、錦糸町駅に向かって逃げるように走ると、交差点を渡り切ったところで振り返り、そして遠くからでも分かる笑顔で、両手を2度、3度と大きく振りました。

さすが、粋な別れの挨拶です。

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